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 昨年(2011年) の2月中旬に、ヘブル的視点から講解メッセージと弟子訓練を行っている中川健一牧師が率いる『第50回 ハーベスト聖地旅行』のツアーに参加して、イスラエルの各地を旅してきました。イスラエルはユダヤ民族誕生の地であり、聖書に記述されている歴史やその遺跡を実際に見ることができる国です。この国で主イエス・キリストがその生誕から十字架で死を迎え、復活して昇天するまでこの地域で布教活動をし、ここから世界中にキリスト教が広まりました。そのため今回の旅行は、観光旅行というよりも、聖書の内容をより深く理解する旅であることに意義があると感じました。
 帰国後、巡り歩いた場所の風景や建造物などを水彩ペン画で描きましたので、それらをまとめて掲載致します。聖地旅行でしたので、聖書に記述されている場所の風景や、キリストやその弟子達が関係する教会や遺跡などを描いたものが多くなりました。掲載した絵は行程とは関係なく、三つの地域別にまとめたものです。



イスラエル中部・死海地方

 到着地のテルアビブからバスで南下し、ユダの山地やユダの荒野を通って死海へ向かいましたが、国土の5分の3は砂漠地といわれるだけに黄色い砂山が続き、雨が降ったときだけに水が流れる谷川(ワジ)が見られました。そのため水に乏しく、淡水資源は国のネットワークに統合され、給水所、貯水池、運河、パイプラインを通じて南部の砂漠地帯へ水を送り、自給自足の農業生産が行われています。死海はユダの荒野から東へ更に800mも下った海面下420mの地域にあり、世界で最も低い場所にある塩水湖です。湖の東側はイスラエル、西側はヨルダンで、死海はその国境に位置しています。


皮なめしシモンの家(ヤッフォ)

 テルアビブの郊外にある古い港町のヤッフォ(新約聖書ではヨッパ)の丘からは、テルアビブの市街や海岸が眺められます。ここにイエスの弟子ペテロが滞在して伝道を行った「皮なめしシモンの家」があります。「使徒行伝」第10章によると、ここに滞在したペテロが百卒長コルネリオを訪問し、最初の異邦人信者が誕生したというキリスト教の伝道の歴史にとって記念すべき場所となっています。


ベドウィンのテント村(アラド)

 イスラエルの中部には、樹木が生えていないユダの荒野や山地が広がり、南側は広大なネゲヴの砂漠が続いています。砂漠の入口の町ペエル・シェヴァには旧約聖書時代の遺跡があります。死海へ向かうユダの荒野の中にポツンと砂漠の民ベドウィンのテント村があって、私たちは広いテントの中で昼食をしました。また、突然の降雨(砂漠地にとっては恵みの雨)のために予定したラクダの騎乗が出来ず、雨宿りをしながら民族楽器の演奏を楽しみました。


死海の塩柱(エン・ゲディ)

 死海は流出する川がないため、塩分含有量が約33%もあり、両手・両足を上げて上向きの姿勢で浮かぶことが出来ます。近年はその水位が下がりつつあるため、プールのある施設から湖岸まで徒歩または連結バスで移動します。湖岸には岩に付着した塩の結晶がサンゴ樹のように連なって湖水の中に沈殿しており、沖へ向かってこの上を裸足で歩くと、針状の結晶が足に刺さって痛みを感じるので、サンダル等が必要です。


クムランの山々と死海写本が発見された洞穴(ユダの荒野)

   クムランは死海の西北岸から1km ほど離れた山地にあるクムラン人の遺跡で、紀元前2世紀にユダヤ教徒のクムラン教団(エッセネ派)が修道的な共同生活をしていた住居跡と言われています。この地が有名になったのは、1947年にベドウィンの少年が洞穴の中に壺に納められた旧約聖書などの「死海写本」と呼ばれる巻物を発見したことによります。谷を隔てた崖の中腹に、その第4洞窟を展望できました。


マサダ国立公園(ユダの荒野)

 クムランから更に死海に沿って南下すると、台形の岩山が見えてきます。この山頂がマサダの要塞跡で、ローマ軍に追いつめられたユダヤ人967人が立てこもり、最後は全員自決したといわれる自然要塞の遺跡です。ロープウエイで頂上に行くと、平らな台地に巨大な貯水槽、食料庫、宮殿など岩組の建物の遺跡を、地上1〜2メートルの古い部分を残した状態で見ることが出来ました。


エマオ(アムワース)

 聖書に書いてあるイエスの弟子たちが復活したイエスに出会った場所については、幾つかの異なった場所が想定されており、エルサレムから30 kmにあるアムワースもその一つです。ここにはローマ、ビサンチン、十字軍時代の各時代の街路や遺跡が発掘されていますが、この絵の場所はビサンチン時代の教会の跡です。帰国のためイスラエルからテルアビブへ向かう途中に立ち寄りました。


イスラエル北部・ガリラヤ地方

 イスラエルの北部、ヘルモン山からゴラン高原へ流れ出たヨルダン川の水はガリラヤ湖に注いでいます。湖の周囲にはカペナウムなどの遺跡があり、イエス・キリストの宣教の中心地でした。新訳聖書に記述されている場所も多くあって、その場所には教会が建てられています。ガリラヤ湖の西側と地中海の間は西ガリラヤ地方で、ナザレやメギドなどの街があり、樹木に覆われた高地と肥沃な盆地に恵まれています。地中海に沿った海岸平野は砂丘と耕地で、カルメル山やカイゼリア遺跡などがあります。


ナザレの受胎告知教会

   ナザレの街は聖母マリアがイエスの誕生を天使から告げられ、生後イエスが伝道を始めるまで両親と暮らした街で、世界中のキリスト教徒が巡礼に訪れます。受胎告知教会はマリアが告知を受けたと伝えられる洞窟の上に建っており、教会内部には世界中から贈られたマリア像で飾られ、日本からも長谷川ルカが描いた『華の聖母子』の絵が掲げられていました。


メギドの遺跡(エズレル平野)

 ナザレの南西にあるエズレル(「神、蒔き賜う」の意)平野は肥沃な大地で、メギドは交通の要衝の地です。古代の遺跡が22層にも重なって発掘されており、地下水を汲むための長いトンネルもあります。旧約聖書の各時代毎に古戦場として頻繁にこの地名が出てきますが、新約聖書の「ヨハネの黙示録」にも、悪霊たちの軍と神との最終決戦の舞台として、ハルマゲドン(メギドの丘の意)の地名で出てきます。 


ローマ時代の水導橋(カイザリヤ)

 カイザリヤはテルアビブの北約40kmの地中海に面した古い遺跡で、ローマ時代にヘロデ王が皇帝カイザル・アウグストのために造った港町でした。ローマ・ビサンチン時代にはユダヤ総督の居住する首都となり、カルメル山から水を引く導水橋が建造され、アーチ状をした岩壁の橋が海岸に沿って建ち並んでいます。


カイザリヤの港と遺跡

 カイザリアの街はヘロデ王によって造られ、防波堤などの港湾施設、円形劇場や競技場などパレスチナ最大の街だったそうです。ローマ時代の遺跡が多く残されており、また港を取り囲んで十字軍時代の要塞や街の城壁が残っています。使徒パウロがここから船出し、イエスの教えが世界中に広まっていった意義のある場所で、古代の栄華を偲ぶことが出来ます。


ガリラヤ湖畔のティベリヤの街

 ガリラヤ湖の西岸にあり、ユダヤ教の聖地であるティベリヤの街から、遊覧船に乗って湖の北方へ向かいましたが、波がほとんどない静かな湖面には美しい湖畔の風景の影が映り、船上からはティベリヤ、マグダラなどの街や周辺の山々が眺められました。


山上の垂訓教会(タブハ)

 山上の垂訓教会はガリラヤ湖の東北岸にあるタブハ村の湖を見下ろす丘(祝福の山)の上にあります。ここでイエス・キリストは新約聖書の「マタイによる福音書」5章にある八つの最も重要な教義(幸いなるかな)を弟子たちに教えたと伝えられ、その場所に1930年にこの八角形の教会が造られました。


ペテロ首位権の教会(タブハ)

 ペテロ首位権の教会はペテロ召命教会とも呼ばれ、イエスが漁師のペテロとアンデレの兄弟に出会って弟子にした湖岸にあり、復活したイエスがここで弟子達に朝食を用意し、ペテロが使徒集団のリーダーに任命された地に建てられた教会です。現在の建物は1933年にフランシスコ会によって再建され、祭壇はメンサ・クリスティというイエスらが食事をした岩のテーブルとなっています。

  


教会のステンドグラスとペテロ召命の像(タブハ)

 ペテロ首位権教会の窓には、抽象的な模様で教会内を照らす素晴らしいステンドグラスが取り付けられています。また、教会の傍らの森の中には、イエスが弟子のペテロに宣教を託している銅像が建っています。 


エルサレム

 エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、街全体が世界遺産の史跡となっています。新市街には第2神殿時代の模型や死海写本の展示館がある「イスラエル博物館」、ユダヤ人虐殺の歴史を語るホロコースト歴史博物館や慰霊館のある「ヤド・ヴァシェム」、園の墓などがあり、旧市街は八つの城門のある城壁に囲まれた地域で、黄金色に輝く屋根をもつイスラム教の「岩のドーム」やアル・アクサー寺院がある「神殿の丘」、そしてキリスト教徒、ムスリム、ユダヤ人、アルメニア人の四つの地区があります。またエルサレム市街の東側はオリーブ山で、ここからエルサレムの街が一望でき、オリーブ樹の林の中に幾つかの教会とユダヤ人の墓地があります。


旧市街の「嘆きの壁」と「岩のドーム」

   エルサレムの旧市街は石壁に囲まれた城壁の中にあり、八つの門があります。東側には神殿の丘があり、広場の中央には丸い屋根が金色に輝くイスラム教の「岩のドーム」があります。その南西側は紀元前20年頃に再建された第二神殿の岩壁があり、「嘆きの壁」としてユダヤ教の聖地となっています。また、岩壁の横にはシナゴークがあって、大勢のユダヤ人たちが壁に向かって祈りを捧げたり、教典を読んだりしていました。


悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)(旧市街ムスリム地区、キリスト教地区)

 神殿の丘から北側のムスリム地区へ出ると、イエス・キリストが死刑の判決を受け、十字架を背負わされて、磔刑に処せられたゴルゴダの丘へ向かって歩いた細い路地の「悲しみの道」(Via Dolorosa)があります。この道には14のステーションがあり、巡礼者はそこで起こった聖書の記述を黙想しながら最終地の聖墳墓教会へ向かってその道をたどって行きます。この絵はキリストが十字架を背負わされた第2ステーションの鞭打ちの教会から、エッケ・ホモ教会の前へと向かう狭い路地です。


聖墳墓教会(旧市街キリスト地区)

 イエスが十字架に架けられ、埋葬されたと言い伝えられているゴルゴダの丘に建てられた教会で、ローマ皇帝の母ヘレナが紀元326年に建造したと言われています。その後内部は大幅に増改築され、今日では世界中のキリスト教の巡礼者が訪れる場所となっています。内部には第10〜14のステーションがあり、イエスの墓(復活聖堂)をはじめ聖書の出来事に因んだ場所に、キリスト教各派の教会が数多く入っています。


鶏鳴教会(エルサレム市街南部)

 シオン門の東の丘にある教会で、キリストの時代には祭司カヤパの屋敷だったところです。イエスが捕らえられて連行され、地下の牢獄に留置された場所で、その石牢の部屋もあります。弟子のペテロが「イエスを知らない」と3度も嘘をついたとき、鶏が鳴いたという聖書の記述に基づいています。教会の横に2000年前の石段が発掘されて存在しています。


涙の教会(エルサレム市街東部)

 イエスがオリーブ山からエルサレムの街を眺めてその滅亡を予言し、涙を流されたという新訳聖書の記述に基づき1955年に建てられた教会で、祭壇後ろの半円形の窓からエルサレムの街が一望できます。山の下方には、金色の玉ねぎ型の塔をもつロシヤ正教の「マグダラのマリア教会」と「万国民の教会」があります。


オリーブ山とゲッセマネの万国民の教会(エルサレム市街東部)

 神殿の丘からケデロンの谷を挟んで東側にある山がオリーブ山です。ここにはイエスの足跡が多く残されており、終末の日にはメシアがここに立ち、死者が復活すると言われているため、ユダヤ人の墓が多く存在しています。イエスが祈りのために頻繁に訪れたゲッセマネの園にはオリーブの老木が残され、世界中のクリスチャンの献金によって建てられた「万国民の教会」(別名:苦悶の教会)が建っています。


オリーブ山から眺めたエルサレム旧市街(城壁の中の神殿の丘と岩のドーム)

 オリーブ山から眺めた城壁に囲まれたエルサレムの旧市街と遠方の新市街です。城壁には八つの門があり、手前側にある黄金の門以外は現在も使用されています。城壁の内側は、ソロモン王国時代に建設された第一神殿のあった「神殿の丘」で、現在はイスラム教の「岩のドーム」(688年建造)が建っており、その向こう側に「嘆きの壁」があります。


ヤッド・バシェム(虐殺されたユダヤ人慰霊記念館)(エルサレム市街西部)

 ヤッド・バシェムはエルサレム市街の西端ヘルツルの丘にあり、第二次世界大戦でナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人600万人の慰霊とその歴史を語る記念館です。ホロコースト(虐殺)の写真や記事、遺品などが展示された博物館、ホロコースト慰霊館、子ども慰霊館、ユダヤ人を救った杉原千畝さんらの植樹園などがあります。 


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