2016年4月、最後の旅行となった長野県高山村の満開の桜の木の下で(横井幸夫氏撮影)
後藤楚子の納骨式
故 後藤楚子の納骨式は、2017年6月18日(日)、14時00分~15時00分に、神奈川県愛川町にある「相模メモリアルパーク」の一画にある多摩ニュータウンキリスト教会墓地に於いて、西田邦弘牧師の司式で行われました。
故後藤楚子姉妹の納骨式における説教(奨励)
説教(奨励):西田邦弘牧師
「キリストに連なる者に起きること」
◆ご挨拶
私たちは、今日ここに、後藤楚子姉妹の納骨を実施することができました。
楚子姉妹の納骨にあたりまして、キリスト者であった楚子姉妹が、その約束の言葉は必ず実現するのだと確信していました、聖書の言葉、即ち、死から復活するという約束の言葉を再確認したいと思います。
◆奥村先生の説教から
今私たちの礼拝では、マルコによる福音書を講解的に読んでいます。その準備にあたり、私は、奥村修武(おさむ)先生(当教会の初代牧師)が書かれた、『マルコ福音書講解説教』を読んでいます。その中で、修武先生は「死」の問題を取り扱っておられます。それは、「イエスの葬り」と題するマルコ福音書15章40~47節の講解の中にあります。その中から、先生の言葉を引用致します。
◆死に接した時の奥村先生の思い
『死について考える時に、私は不思議な思いにさせられます。人は死ぬことによって皆同じ者となるという真理です。どんな善人でも悪人でも同じです。ですから、ホトケになるなどという言い方があります。
しばらく前に、作家の司馬遼太郎さん、また漫才師の横山ヤスシさんが亡くなられましたが、その時思いました。二人とも死ねば全く同じだなという感想です。これは昭和天皇が亡くなられてもそうでした。死ねば、死んだ者として誰もが皆同じくなるのです。これは厳然たる事実です。どんなに麗々(れいれい)しく大喪の礼と称して葬儀を行っても、その事実に変わりはないのです。その意味で、死というものは、人間を根源的に平等に扱うという面があると思います。』
これをパウロ的に言いますと、「罪の支払う報酬は死である」というローマ書の重大な一句が説明しています。つまり、誰もが罪を犯し、罪と関わりを持ったのですから、差別なく、人に死が訪れると言うのです。平等です。人間がしてきた業績、地位には関係なくです
。
いかがでしょうか。皆さんは、修武先生が死に接する時に感じた不思議に、共感されますでしょうか。先生の言葉を再度拾いますと、「人は死ぬことによって皆同じ者となるという真理」「人間がしてきた業績、地位には関係なく、死というものは、人間を根源的に平等に扱う」という表現は、私たち人間の側の目に入る事柄そのものに即して考えるなら、修武先生の述べられた通り、「厳然たる事実」であります。
この「厳然たる事実」の持つ真理性に対しては、キリスト者も、キリスト者でない者も「その通りだな」と首を縦に振っていただけるのではないかと思います。
◆主イエスが死に給うた事の意味
このことをふまえて、次に奥村修武先生の語られた次の言葉を聴きたいと思います。修武先生は、「ここで、主イエスが死に給うた事の意味を改めて考えてみたいと思います。」と語ります。つまり、新約聖書は、主イエスが死なれたことの意味を伝えているので、その意味を聴き取る、ということです。
それでは聞きます。ここで、主イエスが死に給うた事の意味を改めて考えてみたいと思います。
そもそも死とは何なのでしょうか。それは、死とは、やはり関係の喪失です。
声をかけても、返事は返ってこない。花を献げても何の応答もない。ですから、死は、関係の喪失という否定的な力だと言わなければなりません。そして、イエスが死に給うたということは、イエスご自身その関係の喪失という否定の力に、御身を委ねられたことを意味します。もし、主イエスが永遠の神の御独り子であるとすれば、神は神でありながら、ご自身に固有な神性を否定の力に委ねられた事を意味します。
誰もが、潜(くぐ)らなければならない関係喪失という否定の力に、神は耐え給うたのであります。それは、全ての人間と同じようになり、全ての人間のためにそうなり給うた事を意味します。それが使徒信条で告白されているのです。
言い換えますと、死においても、神は私ども人間との関係を保持なさったのです。ですから、まことに不思議なことに、死が関係喪失でありながら、死を媒介として、神の御子そして神ご自身は人間との関係に入られたのであります。
いかがでしょうか。全体が、即座に、すんなりと心に落ちましたでしょうか。恐らく、修武先生の語られた前半の言葉は、すんなりと皆様の心に落ちたのではないでしょうか。
「そもそも死とは何なのでしょうか。それは、死とは、やはり関係の喪失です。
声をかけても、返事は返ってこない。花を献げても何の応答もない。ですから、死は、関係の喪失という否定的な力だと言わなければなりません。」ここまでは理解できる言葉です。しかし、この後に続く言葉に対しては、理解するのに、困惑を覚えるのではないでしょうか。
修武先生の言葉をもう一度ここで繰り返しましょう。
『イエスご自身その関係の喪失という否定の力に、御身を委ねられたことを意味します。
もし、主イエスが永遠の神の御独り子であるとすれば、神は神でありながら、ご自身に固有な神性を否定の力に委ねられた事を意味します。誰もが、潜(くぐ)らなければならない関係喪失という否定の力に、神は耐え給うたのであります。それは、全ての人間と同じようになり、全ての人間のためにそうなり給うた事を意味します。言い換えますと、死においても、神は私ども人間との関係を保持なさったのです。ですから、まことに不思議なことに、死が関係喪失でありながら、死を媒介として、神の御子そして神ご自身は人間との関係に入られたのであります。』
いかがでしょうか。この後半部分は、語っている内容そのものがかなり難しく、そう、すんなりと心には落ちないはずなのです。修武先生自身が本文の中で、横線を引いておられますから、これらの言葉の中のクライマックスは、次の言葉です。
「死においても、神は私ども人間との関係を保持なさったのです。ですから、まことに不思議なことに、死が関係喪失でありながら、死を媒介として、神の御子そして神ご自身は人間との関係に入られたのであります。」
この言葉によって、修武先生は何を語っておられるのでしょうか。修武先生の視点に立って、キリスト教信仰を持っている側から語らせてもらいますと、「神」は、先ず最初に、「神の御子」を「人間として生まれさせ」、「私ども人間と関係を造り出してくださった」のです。これが「クリスマス」の出来事です。
次に、「神」は、「神の御子イエス」が、十字架の上で死ぬことを許し、「神」は、「神の御子イエスの死を媒介として」、「引き続き」「神は私ども人間との関係を保持なさった」ということです。
ハンセン病の方々に仕えたコルベ神父が、真実にハンセン病の方々に仕えるために、神父自ら患者の膿をのみ、ハンセン病になられ、ハンセン病の方々と同等の関係に立たれたという出来事と同じように、「神」は「神の御子」を「人間として生まれさせ」ることにおいて、「私ども人間と関係を造り出してくださり」、「神の御子イエス」が十字架の上で死ぬことを許すことにおいて「神は私ども人間との関係を繋ぎ続けて下さった」ということです。これが、修武先生の語られた「主イエスが死なれたことの意味」です。
とは言え、このように、キリスト教信仰を持っている側から「主イエスが死なれたことの意味」を語りましても、恐らく、多くの日本人の心に、すとんと落ちるのは、なかなか大変な事であると思います。それは何故なのかと言いますと、最も手短に言いますと、それは、神の側が、私たち人間のために、人間は必ず死ななければならないという、この死の問題と取り組んでくださる御方なのだという事実が、なかなか日本人の心に落ちないからであります。
それだけではありません。少しでもキリスト教に触れるなら、新約聖書は、主イエスが、足掛け三日後に、死から復活されたと伝えているのです。この「主イエスの復活」に至っては、心に、すとんと落ちるどころではなくなってしまうのです。とは言え、それはそれとして、「主イエスが死なれたことの意味」と「主イエスが復活されたことの意味」は私たちと深く繋がっていますので、キリスト教信仰を持っている側からの話を続けて語らせてください。
◆復活の希望…パウロの説教から
今日のプログラムに印刷されている新約聖書の言葉に注目します。「コリント人への第一の手紙」15章20節~26節です。パウロという人物が書いた言葉です。
『[20]しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。[21]それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。[22]アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。[23]ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、[24]それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。[25]なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。[26]最後の敵として滅ぼされるのが、死である。』(Ⅰコリント15:20~26)
先程、「神」は「神の御子」を「人間として生まれさせ」ることにおいて、「私ども人間と関係を造り出してくださり」、「神の御子イエス」が、十字架の上で死ぬことを許すことにおいて「神は私ども人間との関係を保持なさった」のだと語りました。実はこのことが、神の側が、私たち人間のために、人間は必ず死ななければならないという、この死の問題を解決するための方法だったのです。
まず21節と22節に注目してください。パウロは、21節で「死がひとりの人によってきた」と語りまして、続く22節で、この言葉が意味しているのは「アダムにあってすべての人が死んでいる」ことだと説明します。つまり、「全ての人間が死ぬことになってしまったのは一人の人が原因であり」、その「一人の人」とは「アダム」なのだ、ということです。
これに対して、パウロは、21節で「死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。」と語りまして、続く22節で、この言葉が意味しているのは「キリストにあってすべての人が生かされるのだ」と説明します。
つまり、「全ての人間は、一人の人物によって死から生かされる道が開かれており」、その「一人の人」とは「キリスト」なのだ、ということです。このように聴き取って20節です。[20]しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
ここに「初穂」という言葉があります。農業に携わっている人たちにはよく分かる事ですが、穀物の収穫が行われる際、一番最初に収穫するものを「初穂」といいます。日本人ですから、お米の比喩に読み替えてしまいますと、「初穂」があるということは、田んぼには稲穂がたわわに実っており、それらの稲穂は、「初穂」と同じように、収穫されるのを待っている、ということを示しています。
次に「眠っている者」という言葉があります。この言葉は、この世にあって「死んだ者」という意味の婉曲表現と理解してよいと思います。そうしますと、20節で語られていることは、類比的に考えて、次のように言えます。
「死後の世界」という「田んぼ」は「死んだ人間たち」という稲穂で満ちています。その「死後の世界」という「田んぼ」からの「初穂」として主イェスは「よみがえった」のです。そうしますと、パウロのこの比喩が伝えているのは、「死後の世界」という「田んぼ」には「初穂」であるイエスと同じように「死からよみがえるのを待つ者たち」がいる、ということです。そして、その「死からよみがえるのを待つ者たち」とは、「キリストと関係を造り、キリストとの関係を保持している者たちだ」となるわけです。つまり、「キリストに連なる者達」です。
これに23節,24節の言葉が続きます。[23]ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、[24]それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
この場では細かく説明しませんが、パウロの言葉によれば、収穫されるのには「順序がある」ということです。
「最初はキリスト」ですが、これは歴史の中で既に起きました。「次に」、「主の来臨に際してキリストに属する者たち」です。「キリストに属する者たち」と語られていますから、「キリストと関係を造り、キリストとの関係を保持している者たちだ」と理解できます。そしてこの「キリストに属する者たち…キリストに連なる者たち」が「死からよみがえる」のは「主の来臨に際して」です。ここで言う「主の来臨」とは、キリスト教用語で、「主イエスが再びこの地上に来られる時」と言う意味です。
ここに至ってお分かりのことと思いますが、キリスト教信仰は「主イエスの復活」よりも先があるのです。「復活された、主イエスは再びこの地上に来られる」のです。そして、その時に「キリストに属する者たち」が「死から復活」するのですから、その時に、人間にとって「最後の敵」である「死」が「滅ぼされる」ことになります。
◆まとめ
大きな輪郭ですが、中心点をまとめます。キリスト教信仰を持つ者達は、「復活された、主イエスが再びこの地上に来られる時」を待っています。今この時に、キリスト教信仰を持つ者達は、恐らく、そのことが起きる前に自分たちが、この世にあって「死を迎えてしまうであろうこと」を知っています。そうではないかもしれませんが…。しかし、同時に、「主イエスが眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」ことも知っています。
楚子姉妹はこの信仰を持って、この世にあって「死を迎えた」のです。ですから、キリスト教信仰を持つ私たちも楚子姉妹も共に、一旦は墓の中に治められますが、「主イエスが再びこの地上に来られる時」に、「死からよみがえる」ことを待つのです。
お祈り致します。
◆祈 祷
私たち人間のために、死の問題と取り組んで下さった父なる神様、あなたは、あなたの独り子イエスを通して、人間の抱えてしまった死の問題を解決して下さいました。私たちは、その主にある、死に対する勝利を信じています。復活を確信していたパウロは言いました。『愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。』今日ここに集まっています私たち一人一人を、パウロと同様に、また楚子姉妹と同様に、死に対する勝利、復活の希望を、人生の確固たる土台とさせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

故後藤楚子の納骨式に参列した親族一同
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