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後藤楚子を偲んで(葬式と埋葬式における牧師の説教)


 後藤楚子(後藤昌之の妻;たかこ)は、今年 元旦の早朝(2017年1月1日午前4時12分)に、東京都府中にある東京都立多摩総合医療センターにて、79歳で天国へ召されました。死亡時の病名はニューモシスチスカリニ肺炎でした。
 楚子は昨年夏、激しい咳と血痰のため、地元の多摩南部地域病院の内科に7月17日に緊急入院し、検査の結果、ANCA関連血管炎(通称、顕微鏡的多発血管炎)および高度難聴(ANCA関連)と診断されて治療を受けておりました。この病いの原因は不明ですが、好中球(白血球の一つ)の細胞質に含まれる酵素タンパク質であるミエロペルオキシダーゼ(MPO)に対する自己抗体(抗好中球細胞質抗体;ANCA)が高率に検出されることから、自己免疫異常が背景に存在すると考えられています。顕微鏡でないと観察できない太さの血管(微細血管)に炎症を起こす病で、50~60歳以上の高齢者に多く発症し、女性にやや多いと言われ、肺や腎臓、皮膚、末梢神経などに特にこの血管が多く分布しているため、これらの臓器の血流の悪化や炎症によって出血が生じ、臓器の機能が低下すると言われています。
 血管の炎症により生命に危険が及ぶ可能性のある場合には、大量の副腎皮質ステロイド薬や免疫抑制薬が用いられますが、家内も8月頃はソル・メドロールという強いステロイド剤を用いたパルス療法を行いました。その結果、10月頃には血管炎の炎症が寛解し、11月22日には一旦自宅に帰って、在宅介護(介護認定4)の生活を過ごすことができました。
 しかし、ステロイド剤の使用による免疫性の低下のために、“日和見(ひよりみ)感染”といわれるカビやウイルス、その他の細菌の感染により再び肺炎が悪化し、12月9日に再び多摩南部地域病院へ入院、その後も意識障害や下血、皮膚や粘膜の糜爛等が身体の各所に生じました。12月19日に救急車で府中市にある東京都立多摩総合医療センターの救命センターに転院し、リュウマチ膠原病内科で治療を致しましたが、諸処置のかいもなく、意識不明のまま2017年1月1日早朝に亡くなったのです。
この時期は高齢の死亡者も多く、年末年始なので斎場も休みのため、すぐには葬儀を行うことができません。1月4日に死亡原因を究明するための病理解剖が多摩総合医療センターで行われましたが、その後 葬儀社で冷蔵保存されて、1月10日(火),午後1時~2時に、教会員として所属する多摩ニュータウンキリスト教会の礼拝堂で葬儀が営まれ、午後2時40分~4時に南多摩斎場で荼毘に付されました。また、遺骨は6月18日の午後、大勢の親族や教会員の方々に見送られながら、相模メモリアルパーク(神奈川県愛川町)にある教会墓地に埋葬されました。
楚子が亡くなって早くも1年が経過し、2018年の正月元旦に一周忌を迎えました。生前、多くの方々から愛され、また大変お世話になりましたことを心から感謝申し上げます。今後も残された家族のために、引き続きお祈りいただければ幸いです。

1歳のパンダの赤ちゃんを抱いて喜ぶ、在りし日の楚子の笑顔です(2002年、中国・四川省のパンダ飼育場にて)



 昨年(2017年)に、教会の礼拝堂で行われた葬式(1月10日)と、教会墓地で行われた埋葬式(6月18日)の際に行われた西田邦弘牧師の説教の全文を、牧師の了解を得てここに掲載させていただきました。


多摩ニュータウンキリスト教会礼拝堂に安置された棺


葬儀次第の表紙


葬儀次第


後藤楚子の葬儀

 故 後藤楚子の葬儀は、2017年01月10日(火)、13時00分~14時00分に、多摩ニュータウンキリスト教会(多摩市山王下1-13-13)に於いて、西田邦弘牧師の司式で行われました。

故後藤楚子姉妹の葬儀における説教(奨励)
説教(奨励):西田邦弘牧師



◆はじめに
 私たちの教会では、教会に集うお互いを「兄弟姉妹」と呼び合う伝統が、未だにあります。もちろん、普通にお互いを「~さん」と呼びあう方々も多数いらっしゃいます。ですから、特に私がそうなのかもしれません。この葬儀の中でも、私は「兄弟 姉妹」とその言葉を使っています。少々違和感があるかも知れませんが、おゆるしください。

◆経 緯
 元旦の朝、居間にある電話のベルがなりました。後藤昌之兄弟からの電話でした。「楚子が、午前4時頃に、天国に召されたと病院より連絡があった」とのことでした。年末に「病院からは、年内かもしれないと言われている」という旨の電話をいただいていましたが、私自身 「いや大丈夫なはずだ」という思いが勝っていましたので、「早過ぎる!」という思いが湧きました。姉妹の病との闘いを昌之兄弟がまとめてくださいました。

◇病の経緯
 楚子姉妹は従来から「気管支拡張症」の持病があり、以前から咳や痰で悩まされていました。その症状が、昨年7月にひどくなり、7月17日に多摩南部地域病院に緊急入院されました。最新の抗生剤が効かず、なかなか病名が判明しませんでした。
 病院での様々な検査の結果、最終的に、自己免疫性の難病「ANCA関連血管炎」、平易に言いますと「顕微鏡的性多発血管炎」と診断され、ステロイド剤による治療が開始されました。治療機関が長期にわたり、約5ヶ月間、入院生活を続けることになりました。ステロイド剤による治療が効を奏し、11月初旬ごろには症状が良くなり、11月22日退院することができました。その後、在宅介護となりました。
 しかし、治療薬のステロイド剤の副作用により免疫力が低下したため、身体の各所がカビやウィルスに侵されてしまい「日和見感染症」と言われる症状を発症してしまいました。それだけでなく、意識も朦朧となってしまったため、12月9日に多摩南部地域病院に再入院することになりました。
 多摩南部地域病院では、年末年始に医師や看護師が少なくなるため、「リュウマチ膠原病内科」と言う専門の内科がある府中市の「東京都立多摩総合医療センター」へ転院しました。年末はそのセンターで治療を続けておりましたが、次第に体力が弱り、年が明けた1月1日午前4時12分に、姉妹は主の御許に召されました。
 センターからの連絡を受けた昌之兄弟は、直ぐに、わたしの所に電話をして下さったのです。実は、昌之兄弟との会話を終え、受話器を置いた時、わたしの心に浮かんだのは、ネットのニュース記事で知っていた、渡辺和子さんの訃報でした。ノートルダム清心学園の理事長をしておられた渡辺和子さんが12月30日、すい臓ガンで主の御許に召されていたのです。89歳でした。
 キリスト者(あるいは、クリスチャン)ではない方々が聴きますと、「えっ! 何それ」と思われてしまうかもしれないことを覚悟して言いますが、受話器を置いた私の心を捉えていた思いは、「ああ、楚子姉妹と渡辺和子さんとが、パラダイスで再会いしている!」という思いでした。
 同じ多摩ニュータウンにあります、東京フリーメソジスト教団、桜ケ丘教会の協力牧師であられる野田秀先生が、渡辺和子さんと「いとこ同士」ということもありまして、渡辺和子さんが桜ケ丘教会に呼ばれた集会で、楚子姉妹は渡辺和子さんにお会いしているのです。
 それだけではありません、楚子姉妹の口に上られた方々の名前を言えば、当教会の初代牧師の奥村修武先生、吉田次郎兄弟、安達隆吉兄弟、わたしの妻の母である安原幸子、佐藤透兄弟、芳賀恒弘兄弟、そして赤間志津姉妹ともパラダイスで再会いしているはずです。信仰的な言い方になりますが、キリスト者の死とは、このような「希望」の側面があるのです。

◆個人の略歴
 楚子姉妹について、昌之兄弟からお知らせいただきましたので、それに基づいてお伝えします。
楚子姉妹は、1937年(昭和12年)10月4日に北海道室蘭市に生まれました。ですので、79歳で召されたのです。1950年(昭和25年)、楚子姉妹が13歳の時に、母親が再婚なさり、以後、府中市に住むことになりました。東伏見の教会の方々との交流で、府中にあります「郷土の森博物館」に行った際、そこに復元され展示されています「府中町立、府中、尋常、高等小学校」の校舎とその展示物を、私たちに対して、嬉々として、説明してくださった姉妹の姿を、思い起こします。
 その後、東京学芸大学で生物学を学ばれ、調布市の小学校の教員となり、その後 日野市、町田市の小学校を転任してまわりました。
 昌之兄弟との結婚は、1966年(昭和41年)3月です。その後、「お母様のお世話」、「子どもの養育」、そして「小学校の先生」という三つの働きを背負われた姉妹は、今で言う「ストレス」に起因した「心の葛藤」をかかえることとなり、内観研修所で内観療法を受けられました。
 楚子姉妹から直接お聞きしましたが、内観療法の先生から「あなたは内観では変わりません。宗教的なアプローチが良いのではないか」と言われたそうです。ちょうどその時、研修所で、同じように内観療法を受けておられたカトリック信者の方に出会い、上智大学の神父様主催のキリスト教の祈りの集会に通うようになりました。そこで、温かな援助を差し出して下さった一人の信者さんと出合い、心が変えられ、また主の恵みによって1988年(昭和63年)5月22日にカトリックの洗礼を受けました。
 昌之兄弟は1989年頃から当教会に通うようになり、1993年(平成5年)12月に当教会で洗礼を受けられましたので、楚子姉妹も同時に当教会へ「転入会」されました。記録を調べましたが、「田中みのり姉妹」と「山下ゆう子姉妹」が一緒に転入会されています。

◆女性版ペテロ
 教会に転会されてからの楚子姉妹の歩みは多岐に渡ります。
 今月8日の教会役員会で、「偲ぶ会」を開くことを決めましたので、その時に、楚子姉妹にかかわる沢山のエピソードを、多くの兄弟姉妹と分かち合うことになることと思います。ですので、ここでは、その骨格だけをお伝えします。
 ① 楚子姉妹は、教会役員として、まず、1996年~98年の3年間、次に2001年~3年までの3年間、そして2007年~9年の3年間ご奉仕下さり、合計9年間ご奉仕いただきました。
 ② 楚子姉妹の退職にあたり、音響設備を献品してくださいました。旧会堂から引き継いで、現在教会で使用している機材がそれです。
 ③ コピー機が導入される前に使われていた「印刷機」も、後藤ご夫妻の献品です。
 ④ 教会のバザーがミニ・プロジェクトに変更になってからは、「クリスマス・バザー」の責任者となってくださいました。國分正子先生が、バザー用にケーキを焼いて下さいましたが、その運搬をして下さったのが姉妹でした。バザーで売れ残ったものを処分するのも最初は、楚子姉妹で、一緒に車で運びました。
 処分ということであれば、教会から出るリサイクル資源は、ほとんど全て楚子姉妹が回収してくださいました。教会の玄関前に、車を止めて、段ボールを車に乗せている姉妹によく出くわしました。
 ⑤ イースターの早朝礼拝にも、クリスマス・イヴのキャロリングにも、ご夫妻で、継続して、出席してくださいました。
 ⑥ 水曜日の昼に開かれていた「婦人祈祷会」に出席できなかったため、同じ水曜日の夜に開かれていた「一般祈祷会」のメンバーでした。ですので、わたしが留守にしなければならない時、楚子姉妹によくお願いしました。
 ⑦ コーウィン先生(当教会の宣教師)がアメリカのカリフォルニアで計画した「夏休み短期英語研修」にも参加され、チベット宣教の働きを始められたキンサイ・千代美さんに、そこで出会っておられます。
 ⑧ キリスト者ではなかった中国人の大学教授の王建康さん・李黎明さんご夫妻と親交を深めておられる姿も教会でお見かけしました。
 ⑨ 野口信生兄弟のお父様が、初めて私たちの教会に来られた時、楚子姉妹を見て「あちらの方が牧師婦人ですか?」と質問されたとのこと。そのような品格と気品をお持ちであるということでしょう。
 ⑩ そして、今年度までの5年間、会計執事のご奉仕をしてくださっていたのです。
 以上が、教会での楚子姉妹のお姿ですが、その信仰者の姿の土台にあるものを、楚子姉妹自身の言葉(『教会20周年記念誌(1995年発行)』に掲載)に聞いてください。

 『1988年5月22日は私の受洗日で、上智大学「みき聖堂」での記念すべき日です。あれから早くも7年、信仰生活はまだまだよちよち歩きですが、それからの試練も真に厳しく、赤子のような私は何度沈没しかかったことでしよう。しかし、神様は「あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Iコリント10:13) の御言葉通り、時にかなった助け手を送って下さり、守って下さいました。ほんとに多くの方々の祈りと支えなくしては、今日の私はなかったことでしよう。
 私に与えられた試練といいましようか、患難は、すべて自分から出ているもののように思います。自分を義として相手を裁いたり、怒ったり、依存してわがままになったり、等々。
 イエス様を信じてからは、そんな私の醜さ、傲慢さが見えてきます。初めはなかなか認たくなくて、苦しくつらい思いもしましたが、イエス様がこの私の罪故に十字架におかかり下さったことを思い、神様の愛に触れてだいぶ気持ちが軽くなりました。
 試練を通らないでは神様に出会えなかった私にとって、患難をありがとうといえる気持ちになっています。』

 聖書で言う、「罪の自覚」、言葉を変えれば「死のからだ」である自覚と、主イエスの十字架による贖罪の恵みが、楚子姉妹の生き方の土台になっていることが、はっきりと分かります。聖なる畏れを持って、主の御名を崇めます。

◇ 社会的責任の自覚
 次に、多くの方々がご存知のように、楚子姉妹は、キリスト者として、「地を管理する責任」、キリスト教会で使われる言葉で言えば、「社会的責任」に該当する働きも積極的に取り組まれました。
 わたしは、一般祈祷会で、長く一緒に時間を共有させていただきましたが、そのようなわたし個人の感想にすぎませんが、楚子姉妹は、「女性版ペテロ」のように感じる一面がありました。
 どういうことかと言いますと、「これが真理だ!」と一旦理解しますと、熱い思いを持って、その「真理の道をまっしぐらに進む!」という一面です。
 ① 憲法問題は、皆様の記憶に新しいのではないでしょうか?「多摩九条の会」に属しておられたでしょう。「日本国憲法第九条にノーベル平和賞を」という署名活動を積極的になされました。
 ② 今は、オリーブ・チャペルと言いますが、教会学校で、ご自身の戦争体験を、子供たちに語ってくださいました。
 ③ 教会員の方々にも多様な意見があるわけですが、「創造論と進化論」、「原発問題」や「人権問題」について、夜の祈祷会で、熱く論じ合いました。
 もう一つあります。
 ④ 後藤姉妹の関心事
 楚子姉妹はカトリック信仰の時代から、未聞発の国々の貧しい子供達を里子として養育し、成人になるまで面倒を見る「エスナック」という里親制度の団体に加入して、その教育資金を援助して来ました。
 1998年には國分正子先生とネパールへ、2009年には、「エスナック」を主宰するシスターの藤田(文子)さんらと、インドやバングラデシュの国内を回り、ご自身が資金援助をしている里子と会ったり、また援助資金が使われている現場を見て来られました。
 この熱い思いは最期まで貫かれ、このたびの入院中でも、アフリカの干ばつによって大規模な食料危機が起こり、330万人以上の子供達が栄養不良で命の危機にさらされているというニュースに心を痛め、日本ユニセフ協会に募金をして欲しいと昌之兄弟に伝えていました。そこで、昌之兄弟は、これからも、楚子姉妹の意思を少しでも汲み取って、その活動を維承して行きたいと考えておられます。
 ということですので、この場をお借りしてお伝えしますが、昌之兄弟は、今回の葬儀で皆様から頂いたお花料のー部を、その支援金に回したいと考えておられます。
 楚子姉妹は、2009年に参加した「エスナック」のツアーに関して、「訪問手記」を残してくれていますので。紹介させてください。

◆東南アジア2ヶ国訪問手記(『国際協力NGO エスナック教育里親グループ創立35周年記念誌』中の「訪問手記」よりの抜粋)

インド、バングラデシュの旅を終えて
─ 健やかに成長しているインドのエスナックの里子達 ─(後藤楚子)
 『70歳を迎えた私が、インド、バングラデシュヘ行く決心をしましたのは、ただ私の里子に会いたいという強い思いからでした。しかし行って驚いたことには、行くところ行くところ、熱烈な暖かい歓迎を受け、現地の皆さんが、いかに「エスナック」の働きに感謝をしていらっしゃるか身をもって感じさせられたことでした。
 シス夕一藤田の話によれば、孤軍奮闘をしていた初期の頃あまりにも大変ではっきりした成果も見えず、あきらめかけたこともあったそうです。しかし20年を過ぎた頃(まあ、なんと長い忍耐でしようか)確かな実が見えてきたそうです。そして、30年経った今、大きく成長した働きの実は、多くの里親に支えられて、スラムの子どもや貧しい山岳民族の子ども達の学ぶ学校を造り、神学校を援助するまでになっていることをこの目で見、驚くばかりでした。
 とはいえ、まだまだ足りないことが次々とあって心が痛みます。例えば、ロキプールの男子生徒の宿舎では雨期になると洗濯物を干す場所がなく、カビが生えて大変で深刻な状態のようです。何とか屋上に屋根付きの物干場が造れないものかと悩みます。(省略)。
 そして何よりも、まだまだ多くの貧しい子ども達が学校に行きたくても行けず、温かい里親さんが現れるのを待っている状態であることも、現地のコーディネーターの切実な願いとリストを見て思いました。私のインドの里子、シャクンタラちゃんに、チッタゴンのスラム・スクールで会うことができました。
 バングラデシュの里子、ノンディちゃんは、16歳になり美容師の職を得、1月から見習い美容師として働き始めました。1日の休みもないのに、ノンディちゃんは、私に会うために、慣れないダッカの町の端の方から叔父さんに付き添われて何時間もかけて来てくれました。それこそ言葉は通じませんでしたが、手をぎゅっと握りしめてー緒に、私たちの宿舎・小神学校まで歩きました。彼女の手は、段差の多い道を歩く私をいたわって歩いてくれました。食事の時、ダンゴ神父様の通訳で彼女との会話が弾みました。
 ところで、ムガイパールで出会った子ども達の中に、貧しさの中で勉学に励む、里親のまだ決まっていない里子のー人をノンディちゃんの代わりにサポートしたいと思い、14歳の少女ジェッシイーちゃんを里子とさせていただきました。←現場で決断!!
 私が下手な英語で「もし、あなたがカレッジやユニバーシティで学ぶ意志があるならば、サポートさせていただきますよ。」と言いましたら、彼女はいきなりかがみこんで私の足にキスをしたのでした。私の胸に熱いものがこみあげてきました。翌日も朝早くからジェッシイーちゃんは「マミー、マミー」と私をさがして会いに来てくれました。私も可愛い里子が与えられて ほのぼのと嬉しくなってきました。(省略)』

 教育を受けた子ども達の中からやがてよりよい国造りのために、貧しい人々のために働く人材が出てくるといいなと思いました。このように、楚子姉妹の中には「受けるよりは与える方が、さいわいである」という聖書の御言葉が息づいていました。この信仰姿勢は、昌之兄弟の持つ「信仰姿勢」とも一致しています。

◆楚子姉との思い出
 最後になりますが、楚子姉妹の最近の歩みからのエピソードをお伝えします。楚子姉妹と一緒に「会計執事」のご奉仕をされた増井陽子姉妹の言葉です。

 『3人体制での会計執事のご奉仕が始まって早5年。小さな会計室はご奉仕に留まらず、励まし合い、分かち合い、祈り合う、かけがえのない場所でした。会計室には、歳の離れた姉(妹)のような楚子姉と共に過ごした、温かい思い出が詰まっていて、いまも傍らにそっと気配を感じるような気がします。「お待たせ~!」の声と共に、ぱっと花が咲くような輝く笑顔で現れて、あれこれ語らい、時にはお茶目な一面をのぞかせた楚子姉。時折ドアをノックしに来られた昌之兄との微笑ましいやりとり、交わした絶妙な掛け合い、冗談の数々、笑いの絶えないひととき・・・ 楽しい笑い声は響き、覗きに来られる方もいらっしゃるほどに、ほんとうに笑顔と喜びに満ちた場所でした。
 また、悩みを抱えている時には、たくさんの時間を割いてくださり、親身に耳を傾け、的確なアドバイスを下さいました。「それじゃ、お祈りしましょう!」と、わたしや岡崎姉が心を神様に向けて委ねることができるよう、誘(いざな)って下さいました。見えないところでもずっと祈り続けてくださる、祈りの人でした。そして、いつも感謝の言葉に溢れる方でした。それは病床で体力が衰え、聴覚が失われてからも変わりませんでした。
 音のない世界に突然身を置くことになり、静寂の中で感じた孤独や不安は、いかほどだったでしょうか。そんな時にも楚子姉の口をついて出てくる言葉は「ありがとう」、「嬉しいわ」、「感謝ね」でした。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」 (Iテサロニケ人 5:16~18)

 楚子姉とのやりとりをかみしめながら振り返る時、このみ言葉が心に迫り響きます。なぜなら、私たちがあの小さな空間で目の当たりにしてきたのは、まさに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝し、主にあって神様のみこころを成そうとされる楚子姉の姿、厚い信仰の姿だったからです。』

 陽子姉妹の言葉をお聞きになられて、皆様もお気づきになられたかも知れません。この5年間、楚子姉妹と一緒に、会計室で、時間を共有し、交わりを持たれた陽子姉妹の心に迫り、響いてきできたのが、テサロニケ人への第一の手紙 5章16節~18節だったのです。
 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。』 (Iテサロニケ人 5:16~18)
 この御言葉が、楚子姉妹の信仰生活の土台となっていた御言葉であったことを、陽子姉妹はご存知ではなかったのです。昨日、葬式の式次第を作成している時に、初めて知ったのです! 楚子姉妹は、『多摩ニュータウンキリスト教会 30周年記念誌』の中で、こう語っておられました。
 「私が困難に遭遇し、何をしても解決の来口が見つからず途方に暮れ、どこに行っても解決の道は無いのだと諦めかけていたときに、まず、この御言葉に従って生きてみよ、と決断させられたのでした。ですから、私たちは、大きな確信を持って、思い描くことが出来ます。」
 神の国の到来を待ち望む、天の御国で、楚子姉妹は今、父なる神様から、お声を掛けられています。
 『楚子よ、あなたは、世にあって、見事に、わたしの御言葉に生きてくれた! ありがとう!』
 お祈りいたします。
◆祈  祷
 あなたの摂理の御手の中で、後藤楚子姉妹を天に召されました父なる神様。北海道の室蘭市に生まれ、府中市で育(そだ)たれた楚子姉妹は、昌之兄弟と結婚なさり、お母様のお世話と子育てと小学校の先生という三つの働きに全力投球したがゆえに、課題を抱え、行き詰まりました。しかし、創造主と共なる歩みとは逆説の連続のようなものです。出口の見つからない、行き詰まりの中で、楚子姉妹は最初の逆説を体験されました。患難の中で、患難が指し示す、本当の出口である主イエス・キリストに出会うことができたのです。あなたの恵みの結果です。楚子姉妹の歩まれた全ての道筋の傍らに、生きて働かれる、あなたの足跡を見てとることができます。ありがとうございます。
 地上に残されました、ご遺族お一人お一人の上に、天来の慰めをお与えください。また、「祈りの人」であった楚子姉妹の熱い、熱い、祈りが積み重ねられております。どうぞ、後藤昌之様、後藤憲之様、後藤智之様、真木様、瑠奈さん、そして鈴木京子様、常信様の上に、祈りの答えとして、引き続き、あなたの摂理の御業を臨ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



2016年4月、最後の旅行となった長野県高山村の満開の桜の木の下で(横井幸夫氏撮影)


後藤楚子の納骨式

 故 後藤楚子の納骨式は、2017年6月18日(日)、14時00分~15時00分に、神奈川県愛川町にある「相模メモリアルパーク」の一画にある多摩ニュータウンキリスト教会墓地に於いて、西田邦弘牧師の司式で行われました。

故後藤楚子姉妹の納骨式における説教(奨励)
説教(奨励):西田邦弘牧師
「キリストに連なる者に起きること」



◆ご挨拶
 私たちは、今日ここに、後藤楚子姉妹の納骨を実施することができました。
 楚子姉妹の納骨にあたりまして、キリスト者であった楚子姉妹が、その約束の言葉は必ず実現するのだと確信していました、聖書の言葉、即ち、死から復活するという約束の言葉を再確認したいと思います。
◆奥村先生の説教から
 今私たちの礼拝では、マルコによる福音書を講解的に読んでいます。その準備にあたり、私は、奥村修武(おさむ)先生(当教会の初代牧師)が書かれた、『マルコ福音書講解説教』を読んでいます。その中で、修武先生は「死」の問題を取り扱っておられます。それは、「イエスの葬り」と題するマルコ福音書15章40~47節の講解の中にあります。その中から、先生の言葉を引用致します。
◆死に接した時の奥村先生の思い
 『死について考える時に、私は不思議な思いにさせられます。人は死ぬことによって皆同じ者となるという真理です。どんな善人でも悪人でも同じです。ですから、ホトケになるなどという言い方があります。
 しばらく前に、作家の司馬遼太郎さん、また漫才師の横山ヤスシさんが亡くなられましたが、その時思いました。二人とも死ねば全く同じだなという感想です。これは昭和天皇が亡くなられてもそうでした。死ねば、死んだ者として誰もが皆同じくなるのです。これは厳然たる事実です。どんなに麗々(れいれい)しく大喪の礼と称して葬儀を行っても、その事実に変わりはないのです。その意味で、死というものは、人間を根源的に平等に扱うという面があると思います。』
 これをパウロ的に言いますと、「罪の支払う報酬は死である」というローマ書の重大な一句が説明しています。つまり、誰もが罪を犯し、罪と関わりを持ったのですから、差別なく、人に死が訪れると言うのです。平等です。人間がしてきた業績、地位には関係なくです
。  いかがでしょうか。皆さんは、修武先生が死に接する時に感じた不思議に、共感されますでしょうか。先生の言葉を再度拾いますと、「人は死ぬことによって皆同じ者となるという真理」「人間がしてきた業績、地位には関係なく、死というものは、人間を根源的に平等に扱う」という表現は、私たち人間の側の目に入る事柄そのものに即して考えるなら、修武先生の述べられた通り、「厳然たる事実」であります。
 この「厳然たる事実」の持つ真理性に対しては、キリスト者も、キリスト者でない者も「その通りだな」と首を縦に振っていただけるのではないかと思います。
◆主イエスが死に給うた事の意味
 このことをふまえて、次に奥村修武先生の語られた次の言葉を聴きたいと思います。修武先生は、「ここで、主イエスが死に給うた事の意味を改めて考えてみたいと思います。」と語ります。つまり、新約聖書は、主イエスが死なれたことの意味を伝えているので、その意味を聴き取る、ということです。
それでは聞きます。ここで、主イエスが死に給うた事の意味を改めて考えてみたいと思います。
そもそも死とは何なのでしょうか。それは、死とは、やはり関係の喪失です。
声をかけても、返事は返ってこない。花を献げても何の応答もない。ですから、死は、関係の喪失という否定的な力だと言わなければなりません。そして、イエスが死に給うたということは、イエスご自身その関係の喪失という否定の力に、御身を委ねられたことを意味します。もし、主イエスが永遠の神の御独り子であるとすれば、神は神でありながら、ご自身に固有な神性を否定の力に委ねられた事を意味します。


 誰もが、潜(くぐ)らなければならない関係喪失という否定の力に、神は耐え給うたのであります。それは、全ての人間と同じようになり、全ての人間のためにそうなり給うた事を意味します。それが使徒信条で告白されているのです。

言い換えますと、死においても、神は私ども人間との関係を保持なさったのです。ですから、まことに不思議なことに、死が関係喪失でありながら、死を媒介として、神の御子そして神ご自身は人間との関係に入られたのであります。
 いかがでしょうか。全体が、即座に、すんなりと心に落ちましたでしょうか。恐らく、修武先生の語られた前半の言葉は、すんなりと皆様の心に落ちたのではないでしょうか。
 「そもそも死とは何なのでしょうか。それは、死とは、やはり関係の喪失です。
声をかけても、返事は返ってこない。花を献げても何の応答もない。ですから、死は、関係の喪失という否定的な力だと言わなければなりません。」ここまでは理解できる言葉です。しかし、この後に続く言葉に対しては、理解するのに、困惑を覚えるのではないでしょうか。
 修武先生の言葉をもう一度ここで繰り返しましょう。
 『イエスご自身その関係の喪失という否定の力に、御身を委ねられたことを意味します。

もし、主イエスが永遠の神の御独り子であるとすれば、神は神でありながら、ご自身に固有な神性を否定の力に委ねられた事を意味します。誰もが、潜(くぐ)らなければならない関係喪失という否定の力に、神は耐え給うたのであります。それは、全ての人間と同じようになり、全ての人間のためにそうなり給うた事を意味します。言い換えますと、死においても、神は私ども人間との関係を保持なさったのです。ですから、まことに不思議なことに、死が関係喪失でありながら、死を媒介として、神の御子そして神ご自身は人間との関係に入られたのであります。』
 いかがでしょうか。この後半部分は、語っている内容そのものがかなり難しく、そう、すんなりと心には落ちないはずなのです。修武先生自身が本文の中で、横線を引いておられますから、これらの言葉の中のクライマックスは、次の言葉です。
 「死においても、神は私ども人間との関係を保持なさったのです。ですから、まことに不思議なことに、死が関係喪失でありながら、死を媒介として、神の御子そして神ご自身は人間との関係に入られたのであります。」
 この言葉によって、修武先生は何を語っておられるのでしょうか。修武先生の視点に立って、キリスト教信仰を持っている側から語らせてもらいますと、「神」は、先ず最初に、「神の御子」を「人間として生まれさせ」、「私ども人間と関係を造り出してくださった」のです。これが「クリスマス」の出来事です。
 次に、「神」は、「神の御子イエス」が、十字架の上で死ぬことを許し、「神」は、「神の御子イエスの死を媒介として」、「引き続き」「神は私ども人間との関係を保持なさった」ということです。
 ハンセン病の方々に仕えたコルベ神父が、真実にハンセン病の方々に仕えるために、神父自ら患者の膿をのみ、ハンセン病になられ、ハンセン病の方々と同等の関係に立たれたという出来事と同じように、「神」は「神の御子」を「人間として生まれさせ」ることにおいて、「私ども人間と関係を造り出してくださり」、「神の御子イエス」が十字架の上で死ぬことを許すことにおいて「神は私ども人間との関係を繋ぎ続けて下さった」ということです。これが、修武先生の語られた「主イエスが死なれたことの意味」です。
 とは言え、このように、キリスト教信仰を持っている側から「主イエスが死なれたことの意味」を語りましても、恐らく、多くの日本人の心に、すとんと落ちるのは、なかなか大変な事であると思います。それは何故なのかと言いますと、最も手短に言いますと、それは、神の側が、私たち人間のために、人間は必ず死ななければならないという、この死の問題と取り組んでくださる御方なのだという事実が、なかなか日本人の心に落ちないからであります。
 それだけではありません。少しでもキリスト教に触れるなら、新約聖書は、主イエスが、足掛け三日後に、死から復活されたと伝えているのです。この「主イエスの復活」に至っては、心に、すとんと落ちるどころではなくなってしまうのです。とは言え、それはそれとして、「主イエスが死なれたことの意味」と「主イエスが復活されたことの意味」は私たちと深く繋がっていますので、キリスト教信仰を持っている側からの話を続けて語らせてください。
◆復活の希望…パウロの説教から
 今日のプログラムに印刷されている新約聖書の言葉に注目します。「コリント人への第一の手紙」15章20節~26節です。パウロという人物が書いた言葉です。
 [20]しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。[21]それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。[22]アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。[23]ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、[24]それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。[25]なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。[26]最後の敵として滅ぼされるのが、死である。』(Ⅰコリント15:20~26)
 先程、「神」は「神の御子」を「人間として生まれさせ」ることにおいて、「私ども人間と関係を造り出してくださり」、「神の御子イエス」が、十字架の上で死ぬことを許すことにおいて「神は私ども人間との関係を保持なさった」のだと語りました。実はこのことが、神の側が、私たち人間のために、人間は必ず死ななければならないという、この死の問題を解決するための方法だったのです。
 まず21節と22節に注目してください。パウロは、21節で「死がひとりの人によってきた」と語りまして、続く22節で、この言葉が意味しているのは「アダムにあってすべての人が死んでいる」ことだと説明します。つまり、「全ての人間が死ぬことになってしまったのは一人の人が原因であり」、その「一人の人」とは「アダム」なのだ、ということです。
 これに対して、パウロは、21節で「死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。」と語りまして、続く22節で、この言葉が意味しているのは「キリストにあってすべての人が生かされるのだ」と説明します。
 つまり、「全ての人間は、一人の人物によって死から生かされる道が開かれており」、その「一人の人」とは「キリスト」なのだ、ということです。このように聴き取って20節です。[20]しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
 ここに「初穂」という言葉があります。農業に携わっている人たちにはよく分かる事ですが、穀物の収穫が行われる際、一番最初に収穫するものを「初穂」といいます。日本人ですから、お米の比喩に読み替えてしまいますと、「初穂」があるということは、田んぼには稲穂がたわわに実っており、それらの稲穂は、「初穂」と同じように、収穫されるのを待っている、ということを示しています。
 次に「眠っている者」という言葉があります。この言葉は、この世にあって「死んだ者」という意味の婉曲表現と理解してよいと思います。そうしますと、20節で語られていることは、類比的に考えて、次のように言えます。
 「死後の世界」という「田んぼ」は「死んだ人間たち」という稲穂で満ちています。その「死後の世界」という「田んぼ」からの「初穂」として主イェスは「よみがえった」のです。そうしますと、パウロのこの比喩が伝えているのは、「死後の世界」という「田んぼ」には「初穂」であるイエスと同じように「死からよみがえるのを待つ者たち」がいる、ということです。そして、その「死からよみがえるのを待つ者たち」とは、「キリストと関係を造り、キリストとの関係を保持している者たちだ」となるわけです。つまり、「キリストに連なる者達」です。
 これに23節,24節の言葉が続きます。[23]ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、[24]それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
 この場では細かく説明しませんが、パウロの言葉によれば、収穫されるのには「順序がある」ということです。
 「最初はキリスト」ですが、これは歴史の中で既に起きました。「次に」、「主の来臨に際してキリストに属する者たち」です。「キリストに属する者たち」と語られていますから、「キリストと関係を造り、キリストとの関係を保持している者たちだ」と理解できます。そしてこの「キリストに属する者たち…キリストに連なる者たち」が「死からよみがえる」のは「主の来臨に際して」です。ここで言う「主の来臨」とは、キリスト教用語で、「主イエスが再びこの地上に来られる時」と言う意味です。
 ここに至ってお分かりのことと思いますが、キリスト教信仰は「主イエスの復活」よりも先があるのです。「復活された、主イエスは再びこの地上に来られる」のです。そして、その時に「キリストに属する者たち」が「死から復活」するのですから、その時に、人間にとって「最後の敵」である「死」が「滅ぼされる」ことになります。
◆まとめ
 大きな輪郭ですが、中心点をまとめます。キリスト教信仰を持つ者達は、「復活された、主イエスが再びこの地上に来られる時」を待っています。今この時に、キリスト教信仰を持つ者達は、恐らく、そのことが起きる前に自分たちが、この世にあって「死を迎えてしまうであろうこと」を知っています。そうではないかもしれませんが…。しかし、同時に、「主イエスが眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」ことも知っています。
 楚子姉妹はこの信仰を持って、この世にあって「死を迎えた」のです。ですから、キリスト教信仰を持つ私たちも楚子姉妹も共に、一旦は墓の中に治められますが、「主イエスが再びこの地上に来られる時」に、「死からよみがえる」ことを待つのです。
 お祈り致します。
◆祈 祷
 私たち人間のために、死の問題と取り組んで下さった父なる神様、あなたは、あなたの独り子イエスを通して、人間の抱えてしまった死の問題を解決して下さいました。私たちは、その主にある、死に対する勝利を信じています。復活を確信していたパウロは言いました。『愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。』今日ここに集まっています私たち一人一人を、パウロと同様に、また楚子姉妹と同様に、死に対する勝利、復活の希望を、人生の確固たる土台とさせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン




故後藤楚子の納骨式に参列した親族一同


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